藤清会の歴史

■昭和212 藤井医院 開院

太平洋戦争中は海軍航空隊軍医長、軍医少佐であった大島出身の藤井豊前院長【前理事長】

(平成
2212月逝去 享年99歳)が、当時の大島元村、柳瀬助役に懇願され、

無医村だった大島に診療所(2月11日)藤井医院を開業しました。

藤井豊前院長は戦後、母校の東大医学部に戻り研究をするつもりだったのを

「戦死したつもりで、島の医療に尽くす」と覚悟し、午前・午後診察、診察終了後に往診。

時に深夜に手術を行いました。

そして、診察だけでなく、幼児から高校生、さらに老人までの健康診断など、

まさに島民の健康を守る中心的医療機関として、

その後
60有余年に及ぶ藤井医院(現、藤清会)は始まりました。

開業当時は電気・水道・ガスなどのライフラインも本土より条件が悪い上に、

道具は、診療机と手術台、応急の手術道具くらいで診療には相当な苦労が伴ったようです。



■昭和27年  もく星号 墜落

事故が発生したのは4月9日、羽田発→名古屋・伊丹経由→福岡行きの便で、羽田を午前7時42分に離陸した

もく星号は直後に消息を絶ち、翌日の朝に同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山山腹

に墜落しているのが確認されました。


 この飛行機には、活弁士・漫談家の大辻司郎や八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人も登場していました。

また当時、飛行機は運賃が他の公共交通に比べ高い乗り物だったため、もく星号の乗客も社会的地位が比較的高い人間ばか

りであり、日立制作所の取締役や石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などがいました。

彼らを含む乗客・乗員37名全員死亡という、当時としては大規模な航空事故となりました。


 当日、霧が濃く事故現場はなかなか見つかりませんでした。全貌が明らかになった時には、頭のない、手足がばらばら、

五体揃っていても全身骨折している死体など散乱。検死は藤井豊先生がお寺を利用し、夜を徹して行いました。


 ■昭和36年  国民皆保険制度できる

 健康保険がなかった頃、一般の方は、料金をお盆か年末にしか払わない習慣となっていたため、

運営していくには大変な思いをしました。

しかし、国民健康保険が出来てからは、医療費を保険で負担してくれるようになったので、

運営はずいぶんと楽になりました。



■昭和40年 伊豆大島元町 大火

出火元は元町の寿司店でした。強風にあおられ、火は大島支庁、大島電話局、大島町役場、元町郵便局などに

延焼し、周囲の民家を次々に焼き尽くしました。

当時の新聞ではこう伝えています。

「町の中は寝間着姿で逃げ惑う人、子供を背負った主婦、ヤカン片手に裸足で逃げる老人などで大混乱。

三原山より高く上がったかに見える夜空の火炎を見て、島内各地からポンプ車などを引いた救援隊が駆けつけて

いるが、全島が停電したりしているため、思うに任せない。消火活動は12日午前1時15分から、家屋を壊しての

破壊消防に移行し、迫る火摩と競争で消火にあたっている。同3時50分現在確認されたのは約400戸、

焼け残った官庁は警察だけという」


翌日の町の様子を見ると、まるで空襲にあって焦土と化したかのようでした。死者が出なかったのはまさに奇跡的

でした。もちろん、藤井医院も焼け出され、その後しばらくはプレハブの診療所で懸命に診療を続けました。






■昭和43年 新診療所設立。

 元町318に新診療所を設立。X線装置、超音波、心電計、内視鏡、など少しずつ購入することができ、

診察も検査も楽になっていきました。



■昭和47

冬木博子(現)看護師長、藤井医院へ着任

■昭和52

 藤井豊院長 困難な環境下での医療活動の功績が認められた人に贈られる「医療功労賞」

(読売新聞社主催、厚生労働省後援)受賞。





昭和61年 三原山噴火

 11月15日から始まった噴火は、玄武岩質のマグマを連続的に吹き上げる溶岩噴泉の

活動に始まり、山頂火口を満たした後19日からの溶岩流をカルデラ床へ流下。そして、21日には割れ目噴火により

外輪山にも11個の火口ができ、この日全島民1万人が島外へ脱出。約1か月の避難生活を余儀なくされました。

 藤井医院に入院中の患者様は全員ヘリコプターで都立広尾病院に送り、噴火による負傷者も出ず、島民全員が東京の

避難所に行くことが出来たのは不幸中の幸いでした。





■平成4

 清水忠典(現)理事長、藤井医院へ着任。

 (清水忠典理事長は藤井豊前理事長の甥)







■平成
11

 藤井豊(前)理事長が退任され、新たに清水忠典理事長が就任。



■平成1114頃、町の病院建設構想
 大島に総合病院建設計画が持ち上がる。古くは昭和8年頃からの島民の希望であったそうである。

平成
14年当時、藤井静男町長から、公設民営方式を打診され、藤井医院と町立診療所(北部・南部診療所)と統合し、

施設は町が建て、運営は医療法人社団・藤井医院に委託する形で構想が固まる。




■平成164月 藤井医院から藤清会(大島医療センター)へ

 公設民営方式(開設者:大島町長 管理者:藤清会・清水忠典理事長)にて、大島医療センター開業。

常設科目として内科・外科・整形外科・小児科・産婦人科、臨時科目として、耳鼻科・皮膚科・心療内科・眼科を揃え、

病床
19X線、CTMRI、内視鏡室、救急処置室、リハビリ室、透析室などの機器や設備を整え、

島内の
3つの診療所を統合した島内唯一の有床診療所としてスタート。


2
次救急、労災、生活保護、精神通院医療、結核医療、原爆被爆者医療などの各指定を受け、

まさに島内医療の中軸になりました。

また、電子カルテや医事会計コンピューター、受付・会計機、待受表示システムなど、

多くのコンピューター化をはかり、患者様の利便性にも配慮しました。

 そして、これを機会に、法人名を「医療法人社団 藤井医院」から「医療法人社団 藤清会」に変更し、

登記を行いました。






■平成1610

 藤井佑二(現)副院長、藤清会へ着任

 (藤井佑二副院長は藤井豊前理事長の次男)

■平成191

 冬木博子看護師長 困難な環境下での医療活動の功績が認められた人に贈られる「第35回医療功労賞」

(読売新聞社主催、厚生労働省、日本テレビ放送網後援、エーザイ協賛)を
受賞。

帝国ホテルで表彰式後、皇居内を案内され、天皇陛下にお言葉を頂きました。

藤清会(前藤井医院)としては藤井豊前院長に続く
2人目の受賞となります。



■平成22129

 へき地医療に尽くし、勲五等旭日章、勲四等瑞宝章、厚生大臣、自治大臣、東京都知事

その他多数の表彰を受けた、藤井豊前理事長 逝去 享年
99

■平成24年4月

 
藤井佑二副院長が大島医療センター院長に就任
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